小保方さん騒動の一件で、成果主義より努力主義の日本がちょっと怖いと思った話。


 

ニュースサイト、SNSに溢れる『STAP細胞』『小保方氏』の文字。夏空の広がるインドにも、容赦なくこのニュースは飛び込んできました。

涙で言葉詰まらせ「それでも、STAP現象は真実です」、産経ニュース、2014年4月9日

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この件についての擁護や批判ではなく、私は会見を受けての世間の反応に気になることがありました。

理研という大きな組織に1人で立ち向かう女性の毅然とした姿、そしてを流しながら『毎日やってきた』『頑張ってきた』と努力を滲ませ、『幼かった』『未熟だった』と自身の至らぬ点を述べる。その言葉に、視聴者の多くは心を打たれ、小保方さんに好感を抱き応援したくなる人も多くいたように感じます。

けれども本来なら、STAP細胞の論文真偽について、ねつ造の有無について語る会見の場であったはず。それが小保方氏の人の心に染み込むような『表現』によって、うまく人々の心を動かす場所になったように感じます。本来なら納得いかない内容の会見、それなのにどうして人々は納得した(ような気持ちになり)、多くの支援者が現れたのか。

小保方さんの会見タイミングで読んだこの記事に、私は通じるものを感じました。

 

『努力だけしかできない人はチームに必要ない』

http://cybozushiki.cybozu.co.jp/?p=15495

この文章では、著者の友人の会社で同じチームに居る、努力家の後輩について取り上げられています。彼のその姿勢はチーム外には肯定的に評価されるものの、彼と同じチームの人は「彼と一緒に仕事をすると必ず残業になり、最悪の場合休日出勤までする羽目になる」とみんな困っているとのこと。彼は成長を焦るあまり、努力が目的化しているというのです。

一般的に、「努力する人」は立派な人だと思われる傾向にあります。一方で、「努力しない人」は残念な人だと思われます。(中略)

もっとも、中にはこれを勘違いして「努力すること」自体が目的化してしまっている人がいます。何のためにやっているのかはあまり考えずに、とにかく努力さえすれば成長できると考えて、非効率なやり方で何時間も頑張ってしまう。(中略)

チームの外には彼を肯定的に評価している人もいるがゆえに、なかなか指導がしづらいと嘆いていました。こういうタイプの人が「ウケる人にはウケてしまう」のも、問題を難しくしています。

 

人の努力というものは目に見えて印象に残りやすいものだと思います。学生時代に戻れば『毎朝1人で朝練をしていた』『放課後も教室に残って勉強していた』そんな描写は、思った以上に人の心に深く刻まれる。そうして”努力家”の文字がその人への敬称となる。

けれども問題なのは 『努力それ自体』はまったく評価に値しないはずなのに、『努力それ自体』が評価される風潮があるということ。

努力は手段にすぎず、成果を残してこそ評価されるべきもの。成果を出すことができなければ、その努力が目標達成に貢献しないようなものだったら、評価をするに値しない。

けれども、こうして努力をし続ける姿を見せた人は、いかに失敗しても責めることができないものです。だからこそ『やっぱり努力してきたから認められたんだ!』と努力熱量が上昇し、また次の『努力のステップ』を歩み始めてしまう。

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今回の小保方さん騒動において、やはり感じたのは『努力それ自体』を評価しがちな日本の風潮です。海外からの冷たい視線は、その小保方さんの努力には向いていません。海外の関係者はSTAP細胞は本当にあるのか、論文ねつ造の真偽、つまり成果に目が向いていました。

しかしながら会見において新事実もなく論文の真偽ではなく聴衆を見方につける、心が動かされるショーでしかなかった。

評価は自分を守ってくれる環境を作り出し、味方だけを受け入れる。安定の先に成長はないはずなのに、求めてしまう。この努力の美学というのが、努力主義の日本精神を表しているように感じました。またそれが、一種の恐怖であるように思うのです。